【1】書籍から
九 かじや旅館(村岡)
村岡の町筋の中ほどにかじや旅館がある。ご主人の小倉和男さん(大正十五年生まれ)のお話によると、その名前の通りに昭和十年頃までは鍛冶屋をされていたということである。家の伝承が記録に残されており、それによると次のとおりである。
この近辺でよく聞かれる金の鉱山との関係を示す伝承が小倉家に伝わっていることは大変興味深いことである。また、ここでも旅館の経営が女性の仕事という一般的な見識が見られる。
後段にもあるように、前の道ができた時にこちらに旅館を建てられたのであるが、もとの家は旧街道に面していたということである。旧街道は、旅館の少し南の所から西に大きく回りこむようにしてついており、その先はまた町筋と合流している。昭和十年頃まではそちらで野道具を作っておられたそうであり、他にも四軒ほど鍛冶業をされている家があったということである。小倉姓が三軒、別の姓が一軒であったという。
雪下ろし後の道は"かじや峠"と呼ばれていた[撮影年代不明]
現在はかじや旅館の北隣に老人センターがあるが、そのまた北隣の辺りに昔は牛市場があった。十五年ほど前まではそこで牛市があり、全国からトラックが来ていた。新潟・富山・静岡・滋賀・三重などから来ていたそうである。それで、かじや旅館だけでは泊まりきれないので、近所の家も借りていたそうである。ほかには、牛の"せり"をする人も泊まっていた。普通は二人であった。また、旅館には大きな牛小屋もあった。
かじや旅館に伝わる「牛市宿料帳」
牛市は十一月の一、二、三日と十二月の三、四、五日であった。それまでに品評会もあって、いい年はその時に売れていた。牛市が終わると、牛を追うて八鹿まで行き、そこから貨車に乗せていた。追うのは地元の人がしていて、一人で5、6頭の牛を追うていた。
南道から望むかじや旅館[昭和初期]
そのほかには、商人もよく泊まっていたそうで、富山や滋賀の薬売り、播州の金物屋のほか、ちりめんや穀物も売りに来ていたということである。
こちらの文章は但馬の歴史を個人で取材し、編さんされた方の書籍より当館の項目を抜粋して掲載させていただきました